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最新刊中心の書評。昔の掘り出し物もたまに書きます。その他雑感も。

科学崇拝の終焉〜『闇に魅入られた科学者たち』書評〜

  純粋な学問の探究心が、特定のイデオロギーと結びついた時に起こる化学反応は、時に破滅的な被害をもたらす—本書はその残酷な事実を、豊富な例を通して我々に突きつける。胃液を口に含んだ外科医ジョン・ハンター、ナチスの大量虐殺の推進者オトマール・フォン・フェアシュアー・精神疾患患者の脳を切り刻んだウォルター・フリーマン、東ドイツで組織的ドーピングを牽引したマンフレッド・ヒョップナー、"史上最悪の人体実験"を行ったフィリップ・ジンバルドーの5人だ。ここでは、今問題になりつつある優生学を象徴する人物である、 オトマール・フォン・フェアシュアーを紹介しよう。

闇に魅入られた科学者たち―人体実験は何を生んだのか

闇に魅入られた科学者たち―人体実験は何を生んだのか

 

 最近優生学の再来として、光と闇の両面を持つゲノム編集については、こちらの記事をご覧いただきたい。

 

honzyme.hatenablog.com

 

ナチスが大量虐殺で悪名高いのは言を俟たない。600万人のユダヤ人と20万人の障害者が犠牲になった痛ましい史実だ。そしてこの殺戮は、ユダヤ人と障害者に対する差別から起こったものだ。ただここで衝撃の事実がある。この殺戮が当時著名な科学者に裏付けられた優生学によるものであったこと、そしてその科学者も、おそらく善意で行っていたことだ。さらに、この差別的な思想がドイツ特有ではなく、アメリカやヨーロッパで先に起こっていたことをご存知だろうか。

 

 

ここでご紹介するフェアシュアーは戦後、断罪されずに教授を続けることになるのだが、多くの学生や研究者から穏やかな人柄の教授だと評価を受けている。実際もともと過激だったというより、ナチスと結びついてどんどんエスカレートしていくのだ。 

 

そもそも優生学とは、人間は自然の中で適応したものが生き残っていくことで進化を遂げていくという遺伝学を社会に適用したものだ。優生学では、ヒトにおいても遺伝的に望ましいものは残して、望ましくないものは除くことで、自然淘汰をヒトの手で起こし、よりよい民族や人類にしていこうという思想だ。

 

この思想を利用して、障害者に不妊手術をするという「断種」手術が行われた。アメリカのインディアナ州で最初に合法化され、他の州やヨーロッパ各国もそれに続いた。彼自身はこのとき、病気や障害を持った子が生まれて来る方が、つまり断種をしない方が残酷なことだと考えていたようだ。最初は抵抗にあったものの、当時のドイツの財政危機が彼を味方した。歳出削減が叫ばれるなか、限られた財源を、障害のある人よりも健康な人に割くべきだ、という恐ろしい風潮が彼を後押ししたのだ。

 

さらに彼を後押ししたのが、アドルフ・ヒトラーだ。それまではかろうじて、断種には当人の同意が必要とされていたが、ヒトラーが就任すると、国が断種手術を強制できるようになる。こうしてヒトラーとフェアシュアーが持ちつ持たれつの関係になってから、暴走はさらにエスカレートする。その後は、障害者との婚姻を禁ずる「婚姻健康法」が成立、ついには差別の対象はユダヤ人にも及んでいくのだ。

 

当時跋扈していた反ユダヤ主義を、彼はこう助長するのだ。科学的裏付けをしたと言ってもいい。

異人種が移住して来ると遺伝的に異質な形質が持ち込まれ、ドイツ民族が変えられてしまう。ユダヤ人が増加し、影響が大きくなることを阻止しなくてはならない。    『遺伝病理学』フェアシュアー・1937年

 ユダヤ人というのは、生物学的な人種ではなく、歴史的に、社会的にカテゴリーに入れられたものだから、そんなことが起こるはずはない。しかしヒトラーとフェアシュアーは一度信じると疑うことなく突き進んでいく。しまいには、実験の資料として使うため、収容所のユダヤ人を倒れるまで採血し続けたり、殺して眼球や内臓、骨格などをとるなど、狂気の沙汰としか思えないことを部下にさせるようになってしまう。

 

さて、時代は21世紀も四半期に迫ろうとしている。人間のDNAが1日で解析できるようになった現在、ダウン症などの異常を起こす可能性が高いと判断された夫婦の9割以上が中絶しているという現状がある。さらに、優生学的な処置が横行しそうな兆候もある。

 

例えばアメリカのカリフォルニア州では、現在、医師が妊婦さんに出生前診断を勧めなければなりません。診療の費用は全部、州が出すことになっています。背景にあるのは、ダウン症のお子さんの出生が少なくなると医療費が節約できるという経済の論理です。もちろん、制度上は検査を受けるか受けないかは、あくまで本人の自由意志です。しかし、検査を受けないこと自体が周りから "無責任だ"と非難されるような時代にならないとも限りません。そういう病気の方への差別意識を醸成しかねない危険性を秘めていると思います。 

 実は日本でも1996年まで、優生保護法に基づいて断種手術が行われており、残念なことに、受け入れる土壌が全くないわけではないのだ。さらに現在、自国ファースト主義がはびこり、経済的に将来への不安を抱える人も多い。また、テレビやネット上で異常なまでのバッシングが蔓延し、「自分がよければいい」といった類の自己啓発書が書店に並ぶ。日本も優生学再来の危険性を十分抱えているのだ。ドイツの失敗に学び、特定の遺伝的形質を「優れている」とか「劣っている」とか決めつけることなく、多様性を認め合うことが、今あらためて求められているのだ。

 

闇に魅入られた科学者たち―人体実験は何を生んだのか

闇に魅入られた科学者たち―人体実験は何を生んだのか